●どんな仕事をしているのか教えてください。
プロデューサーはデザイナーやコピーライターのような専門職ではなく、いわば一般総合職です。ですので一般常識が問われる時が多々あります。基本的には「商売」を意識しなければなりません。デザイナーやライターが制作したモノにどれだけの価値が付けられるか、そしてクライアントといい関係を築き上げられるかが、この仕事においての役割。でも最も重要なのは、デザイナーやライターとどれだけいい関係を築きあげられるか、です。それがいわば「商品」なので、商品のクオリティーを上げるには、いい「関係」を作るしかありません。それが結果的に商売になって、お給料をいただけるのです。ですので私としては、クリエイターには、細かい心くばりと毎晩の新地での接待は欠かせません。「お世話になっております」がモットー。

●主な仕事にはどういったものがありますか?
●讀売テレビ 番組ロゴ、キャンペーンキャラクター「テレビヤン」の開発、ホームページ制作など ●関西テレビ 番組宣伝ポスター、新聞広告など、大なり小なり様々

●今の仕事をしようと思ったきっかけは?
 また、どうやって今の職業に就いたのですか?

基本的にモノづくりの楽しみを知っていることから、すべてが始まりました。きっかけは単純で、紹介してもらうか、自らドアを叩く。私の場合は前者。ただなんとなく興味があっただけ。でもここまでこれたのは、各クリエイターや先輩達が支えてくれたおかげ。

●629とは、どんなイベントですか?見どころは?
仕事ではなく、遊びではなく、展覧会ではなく、完全なアートではないところ。

●仕事、またはクリエイティブなことをする原動力は?
自分に「リアル」であること。
●ものづくりをするうえで、大切だと思うことは?
モノづくりの楽しみを知っているかどうか。「これだけはゆずれない」というものを持っているかどうか。


杉野功太郎 -PROFILE-

西暦1974年、大阪府堺市生まれ。幼少の頃は病弱で、しばらく寝たきり生活を送る。小学生の頃は天性のギャグセンスで教室を常に笑いの渦に。中学生の頃はモテモテで毎日女の子に追いかけられるという幸せな日々を送る。高校生になって同級生らとバンド活動を開始し、勉学とはほど遠い生活を繰り返して両親に苦労をかける。学校の成績は最悪だったが、唯一美術の成績は常にトップだったため高校卒業後はアートスペース制作室(現:関西アート学院)に入校し、その後、嵯峨美術大学に入学する。女好きではあるが、女子集団は苦手なため(クラスの9割が女子だったので)、やむなく中退。その後転々と肉体労働職を渡り歩きながら、貯蓄をし、ニューヨークで放浪するが、貯蓄を全て使い果たし、やむなく帰国。帰国後は東京芸術専門学校に入学し、今は亡き斉藤義重の下で現代アートを学ぶ。同時に、美術作品の撮影を専門とする写真スタジオ「ノマディク工房」でアシスタントを務める。その間、東京・仙台などで作品を発表し、作家としての道を歩むが、あまりの生活苦のため、生活基盤の建て直しを計るために大阪に戻る。その時期、グラフィックデザイナーの東学、コピーライターの村上美香らが所属するg’AZ inc(有限会社ジーアズ)にプロデューサーとして所属する機会を得、その頃のあまりの無鉄砲さから「走れコータロー」の異名をとる。そして突然の長女誕生にプレッシャーを感じ、アトピーになりながらも、2年後にはg’AZ incは解散に追い込まれ、所属を築山万里子率いるアサヒ精版印刷株式会社に移す。その頃から精神の安定を取り戻し、讀売テレビのキャラクター「テレビヤン」の開発などに携わり、様々な仕事をこなすことになる。同時に音楽活動も開始し、高校時代からのバンド仲間である明石氏らと共にBAGZ SOUND FARMを立ち上げ、次女誕生も重なり、精神のバランスを保つことになる。
●どんな仕事をしているのか教えてください。
1. プロデューサーとして
例えばパンフレットを作ったりするお仕事を、クライアント(お客様)からお受けし、コピーライター、デザイナー、カメラマンなどのクリエイターのみなさんに仕事をふりわけ、指示をします。途中デザインのチェックなどもしながら、できあがった物を、クライアントとやりとりし、できあがりまでの進行管理をします。そして、更にプロデューサーとして一番大事なことは、お金の管理をすることです。見積を出して、お金の交渉をしていきます。大きな目で、全体を管理しないといけません。
2. プリンティングディレクターとして
通常、印刷会社の営業の仕事というと、基本的には、デザイナーからデータを受取り、印刷の進行をするだけなのですが、そこから一歩踏み込み、紙質や形態の提案をしたり、アイデアを出し合いながら企画から関わっていくこともしばしば。入稿された原稿(データ)から色校正が上がり、工場で印刷され、加工して出来あがるまで、細かな指示と一切の品質管理をしていきます。

●主な仕事にはどういったものがありますか?
1. プロデューサーとして
●レストランの販促ツール一式の制作。お店のパンフレットやDM、メニューや看板まで。ネーミングから受けることもしばしば。●アパレル(ファッション)のカタログ制作。●テレビ番組のロゴや、ポスターの制作●企業の会社案内制作 ●通販化粧品の販促ツール〜広告媒体一式 ●学校案内制作 etc.他業種に渡る
2. プリンティングディレクターとして
●ジュエリーブランド clio blue(クリオ・ブルー)が年数回発行する情報誌「Waters」とその他DM・販促物の印刷物 ●incomplete designのステーショナリー開発に携わる(2001) ●MBS「サントリー一万人の第九」パンフレット〜CDジャケットの印刷物 ●作家の作品集など、多数。

●今の仕事をしようと思ったきっかけは?
 また、どうやって今の職業に就いたのですか?

大阪女学院短大英語科卒業→上田安子服飾学院・夜間部に通いながら、ファッションのデザイン事務所で約3年→たまたま家業であったので、バイト感覚で入ってから現在に至る。
今の仕事・ポジションは、自分で築いていったもの。今の時代、与えられるだけではなく、どんどん自分をアピールし、自分自身で仕事を獲得していくバイタリティがないと、なかなかむづかしいぞ・・・!

●629とは、どんなイベントですか?見どころは?
プロのクリエイターが、まじで遊ぶ場。お金をちゃんとかけて、自分たちをアピール。真剣勝負で企画〜制作〜実行しています。めっちゃ大変だけど、めっちゃおもろいぞ。

●仕事、またはクリエイティブなことをする原動力は?
「人」かな。

●ものづくりをするうえで、大切だと思うことは?
「愛」です、まじめに。愛情がないと作れない。



築山万里子 -PROFILE-

1969年、祖父の代より続いてきたアサヒ精版印刷株式会社(大阪・上町)の二代目社長、築山敬志朗の長女として生まれる。父、敬志朗は古くから関西でもトップクラスのデザイナーやカメラマンとの交流が深く、その懐の深さから関西デザイン界の裏ボス的存在と言われている。また、美術印刷を得意とする同社の信頼はクリエーターにも厚く、陶芸家・黒田泰三氏、写真家・故福田ノブ氏など作品集をはじめ数々の本の制作を請け負ってきた。平成3年、同社のプロデューサーに築山万里子が着任。天性の明るさで、関西の若手クリエーターたちと深く交流。プリンティングディレクターという新たなるポジションを確立し、様々なデザイナーたちとアイデアを出し合い、企画することで、これまでにないユニークな仕掛のある紙媒体の表現を数多く生み出してきた。ジュエリーブランドClio Blueのカタログや大型フリーペーパー、incomplete designのステーショナリー開発、読売テレビと吉本興業が仕掛ける大型プロジェクト・大阪プロレス、ワールドと大丸百貨店の共同開発ブランドESCHEのビジュアルボード、あじびるグループなど飲食にまつわるパンフレット〜販促ツール、店鋪イメージ開発などを手掛ける。広告企画のプロデューサーとしても名をあげている。
●どんな仕事をしているのか教えてください。
世界規模の製薬会社「アストラゼネカ」にてコンピュータシステムの開発を担当。188では、社内サーバーの構築、また、ビッグカメラでの高価な“お買い物”を担当。

●主な仕事にはどういったものがありますか?
アストラゼネカ経費清算システム、アストラゼネカ全社共有データベース構築、サンヨー電気イントラネットシステム構築

●今の仕事をしようと思ったきっかけは?
 また、どうやって今の職業に就いたのですか?
中学生の頃からコンピュータが好きだったので。
大阪大学中退→コンピュータ総合学園HAL卒業→コンピュータのソフトハウス入社→独立後、一八八の社長就任→妻である村上美香のいたデザイン会社を買い取り、社内にデザイン部門を設置。

●629とは、どんなイベントですか?見どころは?
ちゃんとお金をかけて、大人として、クリエーターとして“遊ぶ”場。

●仕事、またはクリエイティブなことをする原動力は?
好奇心と向上心。もともと映像・音楽づくりが好きでしたが、自分はデザイナーではないので、188内にグラフィックデザイナーやサウンドデザイナーを置くことで、総合的に“いっしょに遊べる空間”をつくった。そのガヤガヤとした毎日の艶のある忙しさが、原動力かも・・・。

●ものづくりをするうえで、大切だと思うことは?
マスターベーションにならないこと。



北口裕康 -PROFILE-

1963年、大阪ミナミの料亭「菊水」の長男として誕生。大阪南中学校を卒業し、高津高校へ進学。大阪大学に入学するが2年次より自主休学。音楽が好きで、DX7(キーボード)が弾きたいがために当時まだ誰も手にしていなかったコンピュータを購入。この時から、マニアックなコンピュータ人生が始まる。1993年、株式会社一八八の社長に就任。2001年の春から、同社にデザイン部を併設。現在は世界屈指の製薬会社アストラゼネカのコンピュータシステムを動かしながら、一方で、グラフィックデザイン業界の新星経営者としての腕をふるう。体も器も、大男。