「まめとみつ」- コピーライター村上美香&「柴犬まめとみつ」のコトバ・グラフティ。

まめとみつ


PROFILE/MIKA MURAKAMI@188《コピーライター》
瀬戸の海を産湯に、波を子守唄に育ち、大阪はミナミの繁華街・坂町に生息する女コピーライター。藤原新也の「人間は犬に喰われるほど自由だ」を敬愛し、「はて。ほんとうに人間は犬に喰われるほど自由か?」と日々思い巡らしながら、2008年2月よりひょんなことから柴犬まめと暮らす。はて。きみにほんとうに伝えたいコトバはなんだろう。そんな、きみとわたしのこれからブログ。

家飲み

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わたしはお茶ですが・・・
晩ごはんがちょい面倒だな、と。で、あまりお腹が減ってないなと
思って1Fでちょっとしたおつまみを食べながらの
家飲み。今日は、家の前の不法投棄におけるゴミの話から、
2000年前のソクラテスさんの話に発展して、
2000年前から世界ってものは一向に変わってないんだなということを
はじめて実感した。そういうことをゆうてたんか。そーだったのか。
世の中のルールはこの頃とくにおかしい。
正しいと思うことが、正しくないことになる。誰かの正しいが、
みんなの正しいにならないし、みんなの正しいが個人の正しいにも
ならない。それなら無難に、事なかれ主義で、やりすごしましょー
スルーしといたらええんちゃう?な・・・
でも、それ、スルーしてずっと気持ち悪
いし暮らしにくいのどーなん?
でも、それ、美香がどうにかしたって一時的なことにしかならんし、
それは今の世の中のルールには違反することや。
そのルール違反をするよりは、世の中のルールそのものを変えていく努力をしなさいってゆうて、死んでいったんがソクラテスさんやったやろ?
といわれて、ああ・・・その2000年なのかあ、と思う。
女ってものは、大きなことはようわからん。小さなことで目いっぱい。
でも、その小さなことが我慢ならんゆうて、ルール変えるところまでの
考えなんか思いも浮かばんかったんやけど、
でも、よう考えたら、なんのためにマチオモイプロジェクトやってんやろ?私、
と思って。数年前よりも、人になにかを伝える場が増えて、
こんなマチはあかんとおもうとか、そういう話をする仲間もいるなあと。
それは、お父ちゃんの畑の話でもおなじで、
マチオモイという大きな考え方のなかで、私ひとりの問題から、
みんなで考える問題にかわっていって、解決の糸口がみつかるかもしれん
ということがそんなに遠い話でもなくなるような。こんなこと、
まったく考えたことなかったのにね。社会問題なんて、思ったことなかったのに。
なんか、こう本当のゴミだけではなくて、人間も含めてゴミだめのような
吹き溜まりのような町に生きてて、そういうのを一掃するだけが、解決では
絶対ないのだけどね。吹き溜まりのような町を誰かが持ち回って、
そういうしわ寄せみたいな場所も大切なのはわかってるつもりで。でも、
そのなかで、税金こんな高くなってる世の中で、
過剰な保護体制とか、そういうの、まじめにがんばってる人があほらしなるような感じはあるよなあ・・・ 自分の足元のことしかみんなできんけど、
でも、自分の足元やからこそできんこともあるとしたら、ちょっと隣の町のこと
関わってみたりして。ほんなら誰かが自分の町、大事にしてくれたりして。
ちょうど自分の親には素直になれんけど、親友の親にはやさしくできるみたいな。
そういうような町のありかたもありだ。まあ、めんどくさいことだらけじゃけど。
好きでも嫌いでも、人とかかわって生きていくほうが面白いのではないかと
思うのですがね。って、こういう話をずっと、まったく他人に興味のないまんちゃんと長々だらだらしている日曜日の晩なのである。

でもまあ、私はソクラテスさんのようにはいかんとおもいます。
でも、どうあれルール違反は嫌いです。ルール違反するときは、かなりの覚悟でのぞみます。その覚悟を軽んじてはいけません。なめとったらほんまタイヘンです。でも、スルーするのだけはやっぱり違うくないですか?

お茶しかのんでないので酔っぱらっていません。
道頓堀400年祭というフェスティバルがこの町であるようですが、
こんなゴミだめのような町にお客様を迎えるのは私は嫌ですよ。

2014年9月15日 00:12  |  
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