PROFILE/MIKA MURAKAMI@188《コピーライター》
瀬戸の海を産湯に、波を子守唄に育ち、大阪はミナミの繁華街・坂町に生息する女コピーライター。藤原新也の「人間は犬に喰われるほど自由だ」を敬愛し、「はて。ほんとうに人間は犬に喰われるほど自由か?」と日々思い巡らしながら、2008年2月よりひょんなことから柴犬まめと暮らす。はて。きみにほんとうに伝えたいコトバはなんだろう。そんな、きみとわたしのこれからブログ。
塚口のおっちゃんが亡くなったとき、
お母ちゃんが電話口で泣きながら、今は忙しくて
お葬式に出られないけど、私は後悔がない、っていってた。
すごいな、って思ってた。人に対して、一瞬一瞬を後悔なく向き合うって
すごいことです。で、真似したいな、ってどっか思ってて。
弘文じいが亡くなったと聞いたとき、
私は室生の展覧会が、打ち上げやら清算やらも、
ちょうどおわったときで、中秋の名月が空に
浮かんでて、すっごいやさしいあかるい空で、涙がぽろぽろ出たくせに
悲しみとちがうかって、妙にすっきりと気持ちが晴れ晴れとしていて、
ああ、こういうかんじをFRUDEというのかな、とはじめて、
第九のメロディを心のなかで歌ってたりして。それ、嘘くさいな、
自分でつっこんでたりして。ほんでも、悲しいとはちがって、
じいは、優しかった。
少しでも手間をとらさないように、できることをできるだけやりたい。
と、記していたそうだ。
車の運転ができなくなり、草をとることもままらなくなってから、
じいは、生きる意味を少しずつ失ったのかもしれない。頭以外は、ぜんぶ、悪い、と
いっていたじいは、頭がはっきりしていたぶん、からだの声を正面からきいてやるしかなかったし。
人生の終わりはいびせーのお、という言葉も何度もきいた。
それ、ぜんぶ隣できいていた。たくさん、握手したし、じいにはたくさん、敢闘賞をもらった。
努力賞ももらった。よう努力しょうる、と誉めてもらった。
帰省の最終日にはかならず手紙をかいて、じいにわたした。それは、次帰るまでの
約束のようなものだった。いつか叶わなくなる日が来ることは知っていたから、
願いながらも、今回でもう会えないかもしれない、という覚悟はしていた。
だから、元気なときにいっぱいあった。病気や危篤になってはじめて、かけつけるようではだめだと思っている。
もちろん忙しい人はしょうがない。でも、元気なときにもっといっぱいいっしょに
いる時間をつくろうよ、と私は思うから。私がいっしょにいたいから、私はそうしてきただけ。
だから、急きょ駆けつける必要もなかった。じいが、最後の決断を
どんな瞬間にしたのかはわからんけど、
おかあちゃんが「さざえさんが終わったあとぐらいじゃった」と
いっていたから、本当に私の展覧会が終わったころだったんだと思う。
じいは、最後までやさしさを残した。
できるだけのことをしてくれた。私にも、母にも、父にも。
そんなじいに対して、
私たち家族はみんな、後悔なく、見送った。
そう思う。精いっぱい、じいの人生を見送った。